はじめに:データは「地図」であり、「旅」そのものではない
新商品開発やマーケティング戦略の立案において、データは不可欠な基盤です。購買履歴、アンケート結果、Web行動ログ。これらは市場の傾向を可視化し、意思決定の精度を高めてくれる強力な材料です。
しかし同時に、多くの現場でこんな違和感も語られます。「論理的には正しいはずなのに、なぜか響かない」。
データは事実を示しますが、その背後にある“体験の質”までは映しきれません。特にウェルネスやフィットネスのように、身体感覚が価値の中心にある領域では、その差は顕著になります。数値が示す満足度と、実際に身体が感じる心地よさ。その間に横たわるものこそが、ヒューマン・インサイトの領域です。
本稿では、なぜ今ヒューマン・インサイトが必要なのか、そしてデータとどのように掛け合わせるべきなのかを、現場の視点から整理します。
なぜヒューマン・インサイトが必要なのか
アンケートで「健康になりたい」と答える人は多いでしょう。「この機能が欲しい」と明確に語る人もいます。けれど、実際に商品を使い続けるかどうかは、別の要因に左右されます。
人は、常に自分の感覚を正確に言語化できるわけではありません。「なんとなく違う」「思ったより楽しい」「理由はわからないけれど続けたくなる」。こうした曖昧な感覚が、行動を左右します。
例えばスポーツウェアの試着。本人は「動きやすい」と評価していても、無意識に肩を触り続けていたり、鏡を見る回数が少なかったりする。そこには、言葉にされない微細な違和感が存在します。
従来型のリサーチは、言語化された回答を中心に設計されています。しかし身体を伴う体験価値は、言葉の外側で決まることが少なくありません。だからこそ、数値の裏にある“身体の反応”を読み取る視点が必要になるのです。
データとヒューマン・インサイトは対立しない
ヒューマン・インサイトは、データの代替ではありません。むしろ、データを立体的に理解するための補助線です。
定量データは「何が起きているか」を示します。ヒューマン・インサイトは「なぜそれが起きているのか」を探ります。
例えば、継続率が想定より低いというデータがあったとします。数値分析では、年齢層や価格帯、利用頻度との相関を導けるでしょう。しかし、実際の現場で観察すると、「最初の5分で身体が温まらず不安になる」「動きが難しく感じた瞬間に集中が切れる」といった、身体レベルの理由が浮かび上がることがあります。
データで仮説を立て、現場で検証し、再びデータで確認する。この往復運動が、精度の高い意思決定を生み出します。
データは構造を示し、ヒューマン・インサイトは意味を与える。両者を掛け合わせることで、はじめて体温のある戦略が成立します。
なぜインストラクターが必要なのか
では、誰がその身体的な情報を読み取るのか。
フィットネスやダンスの現場に立つインストラクターは、単なる指導者ではありません。彼らは日常的に参加者の呼吸、表情、姿勢の変化、空間の熱量を観察しています。
- 動きが止まる瞬間
- 笑顔が自然に増える音楽の変化
- 疲労と充実感の境界線
こうした微細な変化を、経験的に把握しています。
重要なのは、インストラクターが「体験の中」にいる存在であることです。会議室でのヒアリングではなく、汗や呼吸のリズムの中で参加者と同じ時間を共有している。その臨場感の中でこそ、真の反応が見えてきます。
さらに、彼らは感覚を言語化する技術を持っています。「楽しかった」を、「リズムが単純化されたことで成功体験が早く得られた」と翻訳できる。この“翻訳機能”こそが、開発やマーケティングとの接続点になります。
インストラクターは、ユーザーの身体反応と企業の論理を結ぶ媒介者です。感覚を構造に変換できる存在だからこそ、ヒューマン・インサイトの抽出に不可欠なのです。
日常の中でこそ、本音は現れる
テスト環境やモニター会場では、人は少なからず構えます。本音の行動は、「調査されている」という意識のない時間にこそ現れます。
日常の延長線上にある体験の中で、自然に身体を動かしているとき。没頭し、評価されていることを忘れているとき。その瞬間にこそ、リアルなUXが立ち上がります。
ヒューマン・インサイトは、非日常の実験室ではなく、日常の体験空間の中で育まれるものです。
温度を持った意思決定へ
AIやビッグデータ解析の進化は、意思決定の精度を飛躍的に高めています。しかし、人が「好きになる」「続けたくなる」といった感情の動きは、依然として身体と感覚に根ざしています。
数値だけでは説明しきれない違和感。言葉にならない高揚感。その間にある微細な差異を丁寧に拾い上げることが、結果としてブランドへの信頼や継続利用につながります。
データを冷静に読み解き、現場で人の反応を感じ取り、両者を往復させる。ヒューマン・インサイトは、意思決定に“温度”を加えるための実践的な視点です。
